菊一文字則宗

「菊一文字則宗」を打ったとされるのは福岡一文字派の祖、備前国の刀工の則宗とされています。

「則宗」は則宗が制作した一連の日本刀の総称でもあります。「菊一文字」という銘の刀は存在しないとされています。現存する則宗の刀の中に菊の銘を切ったものは確認されていないそうです。

ではなぜ菊一文字則宗と呼ばれるようになったのか。それは後鳥羽上皇と関係があるようなのです。

後鳥羽上皇は歴代天皇のなかで随一の愛刀家であったと言われています。上皇みずから作刀もされたそうです。歴代天皇で作刀までした天皇はいないそうで、歴史上に異彩を放っています。

また、刀剣鑑定家としても達人であったそうです。後鳥羽上皇が政治を取り扱っている当時、すでに刀剣鑑定が専門職としてあったそうです。そんな上皇の作刀の中心(なかご)には十六弁の菊花紋が刻まれています。これは「菊御作」と呼ばれています。

御鍛冶番と呼ばれた十二人の刀工がいました。彼らは後鳥羽上皇の命で月番で作刀したそうです。その十二名のうち、七名が備前国(岡山県の南東部)から選ばれていました。そして名誉ある一月番が備前国の福岡一文字の祖、古一文字の則宗であったそうです。

則宗は御鍛冶番第一人者の栄誉で十六の菊弁の紋章を銘に刻むことを許可されたそうです。そうしてその下に「一」とだけ切ったそうな。備前の刀工グループは総して一文字派と呼ばれましたが、則宗のみ「菊一文字」と呼ばれたのは、後鳥羽上皇の御鍛冶番を代表したこと、その優美さに加えひとつ格が違うものとして語り継がれたからでしょう。

則宗以外の刀工でも菊と一を銘として彫る刀工は何人か存在したそうですが、銘は菊一文字ではないし、菊一文字として一般的には称さないので菊一文字則宗がいかに特別かがわかるようですね。

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